17.8.3 東京都美術館
東京都美術館の地下、ギャラリーは前川國男により設計され、その独特な様はホワイトキューブの対極にあるとも言える。
今回そこで行われるのは、普段身の回りにあるありふれた素材を使いなが作品が存在する場の空気を整えることを大切なプロセスとする杉戸洋の都内初の個展だ。
わたしが杉戸洋の作品をみたのは今回がはじめてであったが、彼が1つ1つの作品で整えた空気感はどれも一貫して暖かさが感じられ、どのような作家であるかが一目でわかるような個展らしい個展だった。
まず印象的だったのは、配布される作品リストだ。作品を見る前に手渡された紙はあたたかい印象のもので、そこに柔らかな文字と線が少しだけ存在しているのを見てあたたかな気持ちにさせられた。
そして1番惹かれた作品は、最初の展示室壁沿いにある7枚のキャンバスによるものだ。
それぞれのキャンバスにはきらきらとしたグリッターで連なる三角形が描かれていて、それらは紫色の小さな直方体たちの上に重ねて立てかけられている。
紫色の小さな直方体によって、床と作品との間に少しの空間ができたいた。
そこにはかすかに落ちたラメが輝いていた。ほんの少しの空間から漏れた小さな光が形容できないほど、というよりも言葉にしてはいけないような魅力を持っていて、赤い床がなにか特別な宝物を隠しているかのように見えた。
その宝物を見つけてしまったわたしは不思議なきらきらに惹きつけられてしばらく動けずに子供のようにかがんでいた。
17.7.22 栃木県立美術館
栃木県立美術館は、社会における美術の位置を科学理論との対比から再考する試みとして、2011年以降ふたつの企画展を行ってきた。
7月15日から開催されている「2D(にじげん)プリンターズ 芸術:世界の承認をめぐる闘争について」展では複製技術などの発達により改めて生じた「芸術による有用性とはなにか」を問い直している。
複製技術が利用されている作品と絵画や彫刻などといった"手わざ"による作品の両方を展示することで複製のあり方や美術における価値についてを考えさせるものになっていた。
わたしにとってこの展示テーマは、自身の考えている「作品を見ることの意味」という問題に限りなく近いものであり、なにかを得られるのではと感じて足を運んだ。
はじめて訪れた栃木県立美術館は、宇都宮駅からバスで15分と少し離れていることもありどこか浮世離れしているように感じられた。
そんな場所だからこそ芸術の有用性という、古典的かつベーシックな問いを改めて取り上げることができたのではないだろうか。
しかし展示のコンセプト自体は明確であり魅力的なものである一方で少し物足りなさを感じたのが実際のところだった。
キャプションのばらつきや全作品撮影禁止であること、そしてそれらの理由が不明であることが妙につっかかり、本当にこのコンセプトにふさわしい形であるのかとかなり考えさせられた。
わたし以外にも解説をもとめている鑑賞者がいたが、そもそもスタッフが展示会の意図について理解しているかどうかのレベルであり、全体的に説明不足を感じられる展示で残念に思った。
鑑賞者に解釈を委ねたところもあるだろうが、扱っている問題が問題なだけにより多くの人に伝わるような方法があったのではないだろうかと感じる。
現代の美術において複製の価値が上がったのは言うまでもないが、それはオリジナルの価値と同等になったのではなく同時にオリジナルの価値を下げたようにも思えた。
この展示では複製とオリジナルを並べることでその両方の価値を共に考え直すという挑戦がなされていたが、その価値のあり方が今後どのように向かって行くのかはわからないまであり、鑑賞者である我々の受け取り方が問われているだろう。
17.6.16 TALION GALLARY
「アンルーリー|Unruly 」
この展示は空間を抽象的なものであるとし、現れたり消えたりする場所をアンルーリーすなわち手に負えないものや規則に従わないものというタイトルのもとスペシフィシティ的考えとともに作品を提示している。
この3日間で空間に関する展示に3つ行くことができた。
今回のこの展示は、先日の2つと異なり空間そのものの抽象性や変化性についてを取り上げている。
作品がメディアにより定位不可能性を獲得し自在に鑑賞者のもとへ現れることが可能になったことは別の記事でも記したが、空間は本当に“そこにあるもの”であり続けるのだろうか。
そもそも空間とは非常に不安定で脆いものだと思う。美術的観点による空間は作品を展示することはもちろん自身の存在によっても繊細に姿を変える。
作品を拘束している展示空間は逆に作品によって変化させられる一面も持ち合わせている。
確かに空間と作品が相互に作用していることが再確認できるような展示だと思った。
空間による拘束と作品による変化はそれぞれを抑制しているように見えるがその均衡はなにによって定められるのか、均衡が正解なのか。
17.6.15 台東区某所
6月15日台東区某所で行われているある展示に行った。
この展示は同年代である4人のアーティストのグループ展であり、作品が様々な媒体を通して鑑賞されるという鑑賞空間の定位不可能性と作品を取り巻くわれわれが必ず存在しているという二重の事実の関係に対する実践として企画されたものである。(HPより一部抜粋)
この展示はふだん展示空間として用いられることのないマンションの一室で行われており、その詳細は事前登録を行った際に知らされるという形で行われている。
その展示意図に沿ってこの記事では展示場所の詳細や展示名、それらを特定するような内容を避けて感想を記録する。
自分は展示と作品の最も重要な関わりは空間に存在すると考えている。
しかしこの企画でも言われているように近年のSNSをはじめとするメディアの発達は作品を展示空間という拘束された場所から解放し、様々な場所で鑑賞を可能にさせた。
先日行われたミュシャ展の会期終了間際の混雑や昨日ブラックボックス展の話題性もメディアによって作品が定位不可能性を獲得したこと、そして展示空間が作品を拘束したことで多くの人々を集めたのだろう。
しかしこの相互関係は本当に作品にとって効果的なものなのだろうか。
ブラックボックス展を体験した後、頻繁に更新されるTwitterのハッシュタグや先日の記事に対する反応を見ているとしばしば展示を全て見ていないとも思われる人々が目に入ってきた。
定位不可能性によって集められた人々は展示空間が不動であり確かなものであるからこそ足を運んだであるはずが、その作品とメディアのみに囚われ展示空間そのものを隅々まで鑑賞していないように見受けられた。
それに対しこの展示は不特定多数の閲覧可能な媒体への画像アップロード禁止、開催地を非公開とするなど展示空間を‘らしく’ない場所に設定したことで新たな拘束を得、作品がメディアを通して定位不可能性を獲得するのを防いでいるかのようにも思える。
展示室に入った際、そこには鑑賞者である男性がいたのみだった。その男性が部屋を出るとともに別の男性と女性が部屋に入ってきた。
彼らがどのようにしてこの展示を知ったのか、この展示に訪れた人はどのくらいいるのかを自分が知る由はない。
ただこの企画が展示場所にもスポットを当てていることで鑑賞者にとって展示空間の存在がさらに大きなものとなっているように感じた。
展示空間の重要性はメディアの発達により失われたようにも見えるが、作品の定位不可能性ばかりが加速して行く中そこに効果的に空間の意味を加えることで作品と空間の新たな相互関係を発見することができるのではないかと考えさせられた展示だった。
17.6.14 ART&SCIENCE GALLARY LAB AXIOM
ブラックボックス展の存在を知ったのはつい3日ほど前だった。
日頃からTwitterを利用しているにも関わらずこの展示に出会ったのは会期終了間際、アルテマにアップデートされた時であったのはなにかの運命だったようにも思える。
この展示がいかに特殊でありなぜここまでの行列を生み出したのかは、サイトを見ることで確認できるだろう。
Hitoyo Nakano BLACK BOX|なかのひとよ BLACK BOX | ART & SCIENCE gallery lab AXIOM|
展示が再開された6月13日にやっと謎を解明することができると期待して1時間半列に並び、選ばれなかった。
バウンサーがあまりにもあっさり自分を阻んだことで驚くくらい何も感じなかったのを覚えている。
しかし自宅に帰り翌日どうするかを考え始めると、苛立ちと期待たが入り混じった不思議な感覚に感情をひたすら引っ掻き回された。
もう並ぶだけの無駄な時間を過ごすのはごめんだという怒りよりも、絶対に内容を確認してやろうという気持ちが勝ち翌14日も列に並ぶことに決めた。
14日。時間のせいもあってか前日よりも列ははるかに短く、揚々と列に並ぶ。
(これから並ぶ人の参考になるといいが、バウンサーの審査までファミリーマートの前からおよそ1時間程度)
前日とほぼ同じ格好だったことにやや不安を感じていたが、今回は無事「選ばれしもの」になることができた。
展示自体、ほんとうに最悪なものだった。
最低最悪なのに影響される自分が悔しくて、そんな最低な展示の一部になってしまった自分を正当化したいがためにこの記事を書くことにした。
一矢報いるという気持ちで、以下展示に関するすべてのネタバレをする。
すでに展示を体験した人は笑いながら、これから行く人は怯えながら、そして行けない人は罪悪感を感じながら読んで欲しい。
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バウンサーによってギャラリーに通された後、自分たちは小さな紙切れを渡されこの展示に関することを口外しないという約束をする。
1000円札があっけなくスタッフに連れていかれてしまったことに少しだけ違和感を感じた。
階段を上がり黒いカーテンをかき分け展示室に入ると、衝撃的な光景がひろがっていた。
展示会タイトルと真逆とも言えるほどの光が溢れる空間。
展示室一面に貼られた鏡たちが光を反射し眩い空間を生み出していた。そこでたくさんの人々があるはずのない自分たちの虚像にぶつかり合い、ひたすらに「ごめんなさい」を繰り返していた。
全くもって馬鹿げた話だと思った。
多くの時間を消費して、自分の財産を消費してまで、自分の虚像と見つめあって狂わされて、出口を探して、存在するかしないかわからない他人と自分に謝るだけの、それだけの作品だった。
自分には誤り続ける人たちがばかばかしくて愉快で、その様子をひたすらに見ていた。
いたって冷静なつもりだった。
しかし外に出た時、世界の正常さに目眩がした。
これがこの展示の意味なんだと気がつかされて、なんともくだらない展示に飲み込まれた自分がいる敗北感にかられた。
帰り道に一枚の紙を受け取る。
それを読んで、ある一文を見てため息が出た。
展示に行った人はこの記事はあの一文によって書かされているとわかるだろう。
これがアルテマレベルの全容だ。
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展示に行った人たちは、なかのひとよに対して負けたとか踊らされたとか悔しい気持ちを抱かなかっただろうか?
自分はそれを認めたくないからなかのひとよに加担して展示の一部として役割を果たそうと思う。
もし悔しくても何もしてない人がいるのならなにか行動を起こすことを勧めたい。
自ら発信するのももちろん、この記事をはじめとする多くの感想たちを拡散することで自分たちはなかのひとよに屈しない作品になるのではないだろうか。
なおこの記事は6月18日に追加を行うつもりだ。