17.6.15 台東区某所
6月15日台東区某所で行われているある展示に行った。
この展示は同年代である4人のアーティストのグループ展であり、作品が様々な媒体を通して鑑賞されるという鑑賞空間の定位不可能性と作品を取り巻くわれわれが必ず存在しているという二重の事実の関係に対する実践として企画されたものである。(HPより一部抜粋)
この展示はふだん展示空間として用いられることのないマンションの一室で行われており、その詳細は事前登録を行った際に知らされるという形で行われている。
その展示意図に沿ってこの記事では展示場所の詳細や展示名、それらを特定するような内容を避けて感想を記録する。
自分は展示と作品の最も重要な関わりは空間に存在すると考えている。
しかしこの企画でも言われているように近年のSNSをはじめとするメディアの発達は作品を展示空間という拘束された場所から解放し、様々な場所で鑑賞を可能にさせた。
先日行われたミュシャ展の会期終了間際の混雑や昨日ブラックボックス展の話題性もメディアによって作品が定位不可能性を獲得したこと、そして展示空間が作品を拘束したことで多くの人々を集めたのだろう。
しかしこの相互関係は本当に作品にとって効果的なものなのだろうか。
ブラックボックス展を体験した後、頻繁に更新されるTwitterのハッシュタグや先日の記事に対する反応を見ているとしばしば展示を全て見ていないとも思われる人々が目に入ってきた。
定位不可能性によって集められた人々は展示空間が不動であり確かなものであるからこそ足を運んだであるはずが、その作品とメディアのみに囚われ展示空間そのものを隅々まで鑑賞していないように見受けられた。
それに対しこの展示は不特定多数の閲覧可能な媒体への画像アップロード禁止、開催地を非公開とするなど展示空間を‘らしく’ない場所に設定したことで新たな拘束を得、作品がメディアを通して定位不可能性を獲得するのを防いでいるかのようにも思える。
展示室に入った際、そこには鑑賞者である男性がいたのみだった。その男性が部屋を出るとともに別の男性と女性が部屋に入ってきた。
彼らがどのようにしてこの展示を知ったのか、この展示に訪れた人はどのくらいいるのかを自分が知る由はない。
ただこの企画が展示場所にもスポットを当てていることで鑑賞者にとって展示空間の存在がさらに大きなものとなっているように感じた。
展示空間の重要性はメディアの発達により失われたようにも見えるが、作品の定位不可能性ばかりが加速して行く中そこに効果的に空間の意味を加えることで作品と空間の新たな相互関係を発見することができるのではないかと考えさせられた展示だった。